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英語は使えなくてもいいのか?
2016年 2月 08日(月曜日) 00:00

私にとって、高校の英語の授業の最終目標は、使うようになることです。英語を使うというのは誤解を招きやすい表現なのですが、決して「英会話する」ことだけが英語を使うのではありません。英語の本を読んだり、洋画を見たり、FacebookやTwitterで海外のあこがれのアーティストやスターにメッセージを書いてみたり、様々な国や地域の人と英語を使ってオンラインゲームをしたり。


もちろん、論文を書いたり、商談したりというのも使うことです。結局、英語を使うことで、あなたの生活にプラスになることが生まれなければ、学校で英語をやる意味はないのです。


さて、専門家と呼ばれている先生方は、学校での英語教育の目標をどのように考えているのでしょうか。先生方の著書である「大学入試にTOEFL」、「英語=道具技能主義の危険」を読みながら考えていきます。(「太字」が引用です)


「ビジネス実利のための道具・技能に矮小化し、極端なスキル主義に陥っています。スキル主義の怖さをたとえて言えば、ナイフの研ぎ方だけを教えて、その正しい使い方を教えないようなものです。」



「これからの時代、英語ができないと就職できないぞ!」そういう脅しはよくないと思います。しかし、言葉は道具だというのは事実です。感情を伝えるための道具であり感情を受け止める道具であり、思考の道具であり感性をつくる道具でもあります。文法や和訳ばかりの日本式英語授業の方が、「研ぎ方を教えて使い方を教えていない」のではないでしょうか。


「公教育で外国語を学ぶ目的は、言語と文化の多様性と面白さに気付き、思考力や感性を拡充するためでもあるのです。」



道具を「使う」ことすらできないのに、こんな大げさなことを目標にかかげていいのでしょうか。「気づき」「思考力や感性」は、言葉を使って、つまり本を読んで感じたり、相手の言うことを聞いたり、自分の言いたいことを書いたり話したりする中で高まっていくのではないでしょうか。しかし、先生の主張は少し違うようです。


「ですから、仮に外国語が実用的に使えるレベルに達しなくても、学ぶ意義は大きいのです。外国語学習によって母語の能力が豊かになり、思考力と感性を高め、そのことが外国語学習の基盤を強めます。」



使えるようにならなくてもいい、ということだとしたら、なにも英語ばかりやらなくてもいいのではないでしょうか。日本の古典や、漢文、あるいは古典ラテン語をやれば、「極端なスキル主義」に陥ることもないでしょう。「思考力」や「感性」の面でも英語よりいいと思います。 


国民全員が「必修」で英語をやらされているのは、国際的共通語だからです。ですから、まずは使うことが優先です。学校の先生や教育の専門家は、よく「思考力」、「感性」、「全人教育ということを主張しますが、こういうことは「使える」ようになって、はじめて意味があるのではないでしょうか。算数に関して「買い物に行った時に、お釣りがいくらかわからなくても、思考力や感性が高まればいい」と言われたら、みなさんも納得できないでしょう。


今までの英語教育、つまり、文法用語をふりまわして、英語を日本語に訳し、日本語を英語に訳すような授業では、「感性」も「思考力」も育ちません。教科書や問題集の「和訳」を思い出してください。という、「変な日本語」が脈絡もなくどんどん出てきます。思考力も感性もあったものではありません。


「外国語学習には「母語との格闘」とい側面がありますので、和訳を安易に否定すべきではありません。「訳読」は害があるだけの「訳毒」ではなく、使い方次第で毒にも薬にもなる「薬毒」なのです。」



やはり和訳のことでした。「英語の授業は全部英語で!日本語は厳禁!」と言われたら私も反対しますが、日本の学校で主流になっている「和訳」は「毒」にしかならないと思います。これだけコミュニケーションと言われている今でも、多くの高校では教科書の本文を全部日本語に訳す授業が行われています。


私自身も、中学高校と訳読中心で英語を学習し、国立大学の外国語学部に現役で合格しましたが、簡単な小説ですら英語で楽しみながら読む力はつきませんでした。みなさんもそうではないですか。


「格闘」というのも「訳読派」だからこその発想でしょう。先生ご自身もブログで紹介されていますが「母語を活用しながら英語を使えるようにする」指導法が、今世界中で研究されています。しかし「活用する」=「訳す」ではないのです。「使い方次第で毒にも薬にもなる」というのであれば、正しい服用方法も同時に教えていただきたいものです。


「学校教育で可能なことは、将来必要に迫られたときに自助努力で使えるレベルに高めることができるだけの基礎学力をつけることです。」



「学校で、使える基礎は身につけたはずだ。実際に使えるようになりたいのであれば、あとは自分でやれ。英会話教室に通うか、直接海外へ行け」ということでしょうか。」別の専門家は、次のように言っています。


「日本の英語教育は間違っている、なぜなら日本で習った英語はまったく役に立たなかったという主張が多く目に付きます。その英語の基礎をある程度までは日本で習っていることを忘れているのでしょうか。」



なるほど。しかし、毎朝、通勤電車の中でTOEICの問題集や、英会話の本を読んでいる社会人が、どれほどたくさんいることでしょう。電車の車内広告を見ると、街にある大手英会話スクールも相変わらず商売繁盛のようです。書店に行くと、おびただしい数の英語学習本があります。


学校で学んだ基礎の上で自助努力をすれば本当に英語が使えるようになるのであれば、毎年毎年、いや毎月毎月、新しい英語教材が出版されたりしないはずです。そもそも、「基礎は身につけさせてやった。あとは自分で何とかしてください」という発想自体、世界的に見て、教育者としていかがなものでしょうか。


なぜこのような発想になるのか私にはわからなかったのですが、どうやら大学の先生方は、日本の学校の授業だけで英語を使えるようにするのは無理だとお考えのようです。