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あとがき
2016年 12月 19日(月曜日) 00:00

有名な英語教育の専門家だけでなく、現場で日々汗を流している先生方も批判してしまいました。「武士の情けもないのか」と言われれば返す言葉もありません。

毎日がんばっている先生方には、本当に申し訳ないと思っています。みなさんには、生徒のためを思って、日々文句もいわず現場で頑張っている先生も、まだまだたくさんいるということをお伝えしておきます。



こんなコラムを書く余裕がある私などは、足元にも及ばないほど頑張っている先生が学校を支えているのです。そういう先生は、専門家の先生がおっしゃるような「私利私欲を滅した研修会」に出かけるヒマもありません。なにせ休日もほとんどないのですから。


私の英語教員としての思いはただ1つ、「英語教育をまともにしたい」だけなのです。私の考えをみなさんに押しつけるつもりもありません。「まともな教育」を目指した、「まともな議論」をしたいだけです。大学の先生方のように、論文を書いたりシンポジウムで発表することはできません。


ただし、大学教授のような英語専門家や今まで辞書や参考書を破れるほど使って「根性」で苦労してきた、ご自身の英語学習を否定されたくないとお考えの方には、お答えするつもりはありません。


では、最後にお約束ですが、多読・多聴についていろいろ教えてくださった多読実践者のみなさん、「それでも教師か、生徒がかわいそう!」といつも厳しいご指導をいただいている英語ユーザーの方々、様々な実践を惜しみなく教えてくれた友人の先生方に感謝を申し上げます。


人を虫けらのように扱うホンモノのエリートになれなかった日本人たち①


一部の日本人に、どうして人を人と思わぬような言動をするのか、どうして人を虫ケラのように扱うのかと思うことがありました。そういう人は、いつもなんだか不機嫌です。ささいなことで後輩や部下を怒鳴ることも多いように思います。どうみてもイジメでしかないことも。側にいると、片時も心休まるときがないのです。


人に冷たいというか、厳しすぎるという態度をとる人はどうも頭は良くて、そこそこ一流の大学を出ているが、かといって東大法学部や医学部のような「超」がつくほどの出身ではないのではないでしょうか、そこに何か共通項があるのではないかとおぼろげに思いつつ、私たちは長年このような人たちを見てきました。


例えば、東大や京大を受験したけれど残念ながら早稲田大学や立命館大学に入らざるを得なかった人とか、東大・京大には入ったが法学部・医学部には行けずに文2か文3に行った人たちです。世間的には一流大学じゃないですか、と人から羨まれる学歴なのに、本人は屈折した思いを抱えているようです。


こういう人は偏差値ではほとんど変わらないのに、頂点の東大文1や理3にわずかな差や入試問題の不運なんかで入れなかったために、心底コンプレックスを抱くか、こんなはずではなかったとの思いを抱き続けているのではないでしょうか。学歴は終生消せないから、いつまでも不機嫌を引きずるのだと思うのです。


大学としては一流の中には入れてもらえないところを出た人のほうが、むしろあきらめがついているのか、もともとのんびり屋で競争に強くなかったせいか、対人関係でギスギスした感じにはならないような気がします。


何も学校の成績だけが人生じゃないと悟っているせいか、それとも学歴を価値基準にしたら単にやりきれないのか、人を虫ケラのように怒鳴りまくることはないでしょう。


1960年代末の学園紛争あたりから始まって、その後の子どもたちの荒廃(教育現場の荒廃)、すなわち暴走族も、校内暴力も、学級崩壊も、援助交際も、モンスター・ペアレントの登場も、すべては大学入試制度が悪い、大学教官がバカだからだと論証したものなのかもしれません。

ものの考えのまっとうさを試す問題は皆無に近く、重箱の隅をつつくようなヒネた問題ばかり。東大の国語、英語の問題。こういう問題しか考えつかない大学のエリート教員のいかに頭が悪いかなのでしょう。彼らは大学入試の問題をつくるにあたって、予備校のプロでさえ正解が出せない超ひねくれた問題を作る能力だけがあるようです。


戦後ずっと、教育改革はこの最高学府の入試制度を触らずに、小中学校の教育課程を変更することで学力向上を図ろうとしたがこれでは目的を達成できるはずがないというのが著者の主張です。高校の世界史履修漏れや分数が出来ない大学生を批判するのなら大学入試に世界史や分数を導入すればいとも簡単にこの問題は解決するはずです。


現在の荒れた教育現場については、現在の荒れている子どもの親世代がかつて学校から排除された世代であり、親に「学校は大切なところ」とか「先生の言うことをききなさい」という感覚が形成されていないという現実です。その通りではないでしょうか。ほんの一握りの受験成功者以外は、99%が落ちこぼれになってしまうのです。


つまりは、人生で必要なのは自分で考えることができ、豊かな感情があり、そして個人が自立してなおかつ社会的認識が見事に備わっていくよう、教育することなのに、現今教育制度はまったくそうなっていなくて、テストで模範解答を選ばせる教育になっているということです。そこで模範解答にあわせて自分を決めていく受験勉強に、ほんの一部だけが成功して、あとは落ちこぼれた2流以下にされてしまうのです。


恨みはみんな抱いて卒業します。そして我が子の番になって今度こそ1%の成功者に入れてやりたいとリベンジを狙う親もいる一方で、不信感を抱きつづける親もいるのです。そんな親が子どもに対し家庭で学校の権威を説くはずもなく、いくら学校現場で教師が奮闘したところで学校の権威の回復は望むべくもないでしょう。


人を虫けらのように扱うホンモノのエリートになれなかった日本人たち②


一部の日本人に、どうして人を人と思わぬような言動をするやつがいるのか、どうして人を虫けらのように扱う人がいるのかの疑問を前回書いてみました。それを生むのは現今の社会のありようにあるのではないかと、受験勉強とその成功者が君臨する現状を考えてみたのです。


一握りの受験社会の成功者は、官僚や医者、大学教授とかになって、ふんぞり返って自分より成績の悪かった者を見下す。だから横柄、傲慢、尊大となって人を虫けら扱いするようになるのでしょう。と同時に、その特権階級に一歩及ばなかっただけの連中は、劣等感、恨みを持つから常にイライラし、俺はこんなはずではないのだと鬱屈してきます。それが八つ当たりとなって、他人を虫けら扱いするのではないでしょうか。


同じアジアの中国人の場合、共産党幹部に昇りつめると、やはり人を人とも思わない人間になることを私たち日本人は知っています。そして。いつも不機嫌な顔をしています。笑っているようで目は決して笑わない。騙されまいと身構えているのでしょうし、隙あらば相手を潰そうとしているからなのです。


しかし、中国は伝統的に科挙制度でやってきています。日本よりも完全な受験社会です。模範解答にあわせて自分の頭を創っていきます。そういうことに成功した者が社会を牛耳るのです。多用な価値観を許し合う社会にはなっていなくて、常に人の優劣が受験的に創られた価値観で判断される社会なのです。


ある意味で、嘘をつこうが約束を踏みにじろうが、社会で決まっている価値観で優位に立てればすべて良しとされるのです。日本の受験生もそうですが、自分の人生を自分で決めて、社会の発展に寄与して、それが多様性を大事にする考えにつながるから、人を愛せるし友情の大切さもわかる人間になるべきが、他者のことなんかどうでもいい人間になるのです。


アメリカ人も、厳しい受験社会です。そのルートで落ちこぼれたら、食べていくのも大変で、軍隊に就職して危険な戦場に行って帰ってこなければ貧乏人は奨学金も手にできません。だから常に他人を見下すし、黒人やヒスパニックや下層の人間を徹底して虫けら扱いをするのでしょう。そうした価値にしがみついて、自分は人よりちょっとでも「上」に行きたいと思いたいのです。


また、そうした価値観になじんだ世界中の若者が、あの感性の薄いアメリカに今日も移住していくのです。