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コミュニケーション重視は、英米追従の植民地主義では?
2016年 6月 06日(月曜日) 00:00

専門家と呼ばれている先生方は(「『国際語としての英語』と英米の言語戦略」)で、英語そのものの多様化、国際化に反し、日本の英語教育業界では明治に逆戻りしたかのように英米化が進み、経済的に英米を潤すような仕組みができあがっているのです。」と述べられています。




けれども私は、教科書にも英語圏以外の話が出てきたり、英語圏以外の英語が紹介されることも多くなってきたと感じているので、「英米化が進んでいる」とは全く思っていません。



雑誌「中央公論」に掲載された、斎藤・鳥飼両先生の対談も見てみましょう。



鳥飼 「歴史的に振り返れば、日本の英語コンプレックスは明治以来150年もの歴史がありますね。」


斎藤 「第二次世界大戦で敗北を喫した。このときの敗北感がそれまでの英米崇拝と結びついて、英語圏、英語に対する愛憎のDNAができあがった。それで日本人はいまだに明治以来の英語コンプレックスから抜け出せないのかもしれません。」



日本人の親から生まれてくる子どもには、「英語コンプレックスのDNA」が埋め込まれてしまっているということでしょうか。いくら「対談」とはいえ、雑誌に掲載される大学教授の発言として、これはいかがなものでしょうか。時代遅れも甚だしいと思いませんか?


私は英語コンプレックスが、明治以来の歴史や敗戦に基づいているとは決して思いません。今の若者文化を見てください。マンガやアニメなど、日本のポップ・カルチャーは世界の若者の羨望の的です。アニメ・コスプレ好きの生徒は、コミケに行くといつも外国の人に囲まれて大変だと言っています。また、残念ながら今の若者は、明治以来の歴史も第二次世界大戦のこともよく知りません。英語コンプレックスがあるとするなら、それを植えつけてしまっているのは、英語の先生や、英語専門家の「ダメ出し」攻撃なのではないでしょうか。


引き続き対談を読んでいきましょう。



鳥飼 「国際共通語としての英語という意味が分かっていない人が多い。(中略)学ぶときはきちんとした英語、使うときはネイティブを気にせず、分かりあえる英語でよい。」


斎藤 「分かります。でも、ネイティブに「私たちはそういういい方はしない」といわれて、「いやいや。これは国際共通語だから」とはなかなかいえませんよね。」


鳥飼 「ある日本人が山火事について話そうとして”mountain fire”といったんです。そうしたら近くにいたアメリカ人が、「違う、forest fire」と直したんです。日本人学生は”Oh,I’m sorry.”ですよ。謝ることはない。「日本では山全体を見て、山火事っていうんです」でいいのに。」


斎藤 「しかたないですよね。明治以来の憧れと憎しみの歴史で、理屈じゃない(笑)。」



どうして堂々と「国際共通語だからこれでいい。今や英語はネイティブだけのものではない!」と素直に言えないのでしょうか。それにしても、この対談、全然かみ合っていないと思いませんか。実は、座談会でも、両先生の話がちぐはぐになってしまっている部分があります。ご興味があればお読みください。


さて、先生方はブログ(『「授業は英語で」は時代遅れ』)で、「もっとも敬愛する言語教育研究者の一人」久保田竜子教授の論考を紹介されています。


一連の英語教育改革に見られる外国人=白人の英語母語話者、理想の英語教育=モノリンガル的教授法、日本人としてのアイデンティティ=愛国心と反自虐史観という歪んだ等式は、グローバル人材を育てないどころか、近隣諸国の五輪ボイコットまで引き起こすのではないか。


「一連の英語教育改革」ということは、「コミュニケーション重視」の方針も含まれるということでしょう。かなり無理な等式ではないでしょうか。「愛国心」「反自虐史観」というのも、英語教育とは直接関係ないのではないでしょう。みなさんはどう思いますか。



専門家と呼ばれている先生方は、


「冷静な心で読んでいただければ、わたしたちの主張を賛成するか、反対するかは別にして理解できるよう」とありますが、先生方の主張自体が、冷静さを欠いていると言えるのではないでしょうか。さらに、先生方はブログで以下のように書かれています。(「イングリッシュシャワールーム」)



ネットで新聞を読んでいたら、「イングリッシュ・シャワールーム」という妙な表現が目に飛び込んできました。気になったので、記事を読んでみると、「日常的に英語にふれることができる場所」のことだそうで、ある県の教育委員会が、中学生が英語を「シャワーを浴びる」ように耳にし、高い英語コミュニケーション能力が身につけられるようにと考えて、県下の中学校に新たに設置を決めたものだそうです。


私は、この教育委員会のアイデアは素晴らしいものだと思います。願わくば、ネイティブスピーカーだけでなく、様々な国の外国人の英語も浴びさせていただきたい。しかし先生は、


ここでその趣旨について議論するつもりはありません。問題は「イングリッシュシャワールーム」という表現です。


とのことで、この名称が適切かどうか、ということに注目されていました。まるで「英語話者=白人の母語話者」になってしまわれたかのようです。そして実際に、ネイティブスピーカーに確かめられたようです。もちろん白人かどうかはわかりません。


アメリカの大学で社会言語学を教えている日本人とカナダ人の夫妻は「帝国主義時代、インドなどでイギリス人しか入れなかったシャワールームとか?」という話を無理矢理ひねり出してくれました。でも、最後には、「先生の質問だから、日本の英語教育で英語をシャワーのように浴びる、immersioneducationを指しているのかも?」というところまで達したそうです。


英語圏至上主義を批判するのであれば、この返答をみて「English shower roomでいい」という結論を出していただきたいものですが、残念ながら違うのです。


この表現のつたなさをあげつらうためではありません。1つには、せっかく税金を使って、こういう試みをしようというのですから、英語話者に「イングリッシュシャワールーム」という表現の響きについて確かめておくぐらいのことはしたほうがよかったのでないかということを指摘するため、もう1つには、和製英語に対しても、その種の表現にある程度触れていると直感がきくようになるという、少なくともわたくしにとっては興味深く感じられたことを皆さんにもお伝えするために書いたものです。


「つたなさをあげつらうためではありません」と断りを入れながら、「確かめておくぐらいはした方がよかったのではないか」というのもよく意味がわかりません。結局、「あげつらって」しまっていることになっていますよね。


なお、「世界の英語たち」のご時世、「イングリッシュシャワールーム」というのは日本式英語として立派なものだというお考えの方もおいででしょう。ぜひご意見をお聞かせいただきたいと思います。


ということで、リンクがあったので見てみました。肯定的なコメントは1件だけ。否定的な意見として「もっと注意をして命名すべき。」「『シャワールーム、ロッカールーム』の連想で、ゲイがらみに思えてしまう。」などという意見がありました。ちなみに、「ゲイがらみ」と言っているのも英語専門家の方のようです。


このようなことを問題にされる一方で、「英語教育の英米化」を批判というのも、おかしいのではないでしょうか。ほとんど英語圏に住んだことがない日本の英語科の大学教授たちは皆頭がおかしいのでしょう。